大阪地方裁判所 昭和55年(ワ)2587号 判決 1982年9月20日
主文
原告の主位的請求および予備的請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
原告代理人は主位的請求として「被告は原告に対し金三九五万六、一一四円およびこれに対する昭和五五年四月二二日以降完済まで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決、予備的請求として「被告は原告に対し金二一六万一、二六五円およびこれに対する昭和五五年一〇月二一日以降完済まで年五分の割合による金員、並びに昭和五五年一一月、昭和五六年二月、五月、八月、一一月、昭和五七年二月、五月、八月の各月末日限り各金二二万一、九九三円、昭和五七年一一月末日限り金一万八、九〇五円を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決並びに仮執行の宣言を求め、請求の原因として次のとおりのべた。
一 原告は労働者を使用し労働者災害補償保険法(以下労災保険法という)の適用を受ける事業の事業主である。
原告の従業員労働者であつた訴外岡山純一は昭和四二年六月七日原告本社工場でトラクターシヨベル車の点検修理業務に従事中、シヨベル車のバスケツトを吊るワイヤロープが突然切断したことにより脳挫傷等の傷害を負つた。
二 岡山は原告を相手どり民法七一七条の工作物の瑕疵の責任に基づく損害賠償請求訴訟を起した。
この訴訟の最高裁判所昭和五〇年(オ)第六二一号判決で同裁判所は昭和五二年一〇月二五日原告に、岡山に対して金一、七一三万五、〇八五円およびこれに対する内金一、二七一万九、八七八円については昭和四五年三月一七日から、内金三七一万五、二〇七円については昭和四九年一〇月一九日から、各支払ずみにいたるまで年五分の割合による金員の支払いを命じた。
三 最高裁判所はこの判決中で、岡山の受ける労災保険法の長期傷病補償給付金額を損害賠償債権額から控除するにつき、未だ現実に支給されざる補償給付は賠償債権額から控除するを要しないとの理由で、補償給付(昭和四六年二月以降八五年五月まで)の現在価格金四七五万九、一三二円のうち昭和四九年一〇月までに支給ずみの給付金八〇万三、〇一八円を除くその余の金三九五万六、一一四円は将来の給付として未だ現実に支給されていないゆえ控除を要しない旨判示した。前記支払いを命ぜられた金員はこの控除されなかつた額を含む。
四 原告は右判決に従い昭和五二年一一月二五日、控除されなかつた額を含む損害賠償債務の全額および遅延損害金の合計金二、二三二万一、三二六円を岡山に支払つた。
五 右支払いにより原告は岡山の被告に対して有する昭和四九年一一月以降八五年五月までの補償給付金三九五万六、一一四円の給付請求権を取得した。
その法的根拠は左のとおり損害賠償者の代位による権利取得または労災保険制度の趣旨乃至公平の原則に基づく権利取得にある。
(一) 労災保険制度の趣旨は、不可避的に発生する業務上の事故で労働者の受ける労働能力喪失の損害を填補するため使用者に労働基準法上補償を義務付け、この義務の履行を保険制度で担保するにある。保険制度によつて使用者は少額の保険料を負担し、事故の場合に生ずる一時の多額の出費の危険を免れる。労働者は保険金の給付を受けて確実に損害の填補を受ける。
ところが前記判決に従えば事業主は国から強制的に保険料を徴収されたうえ、将来の保険給付により労働者の損失の填補される分についてまでも損害賠償義務を負い、反面この分につき保険による利益を全く受けえない。この賠償義務を履行した以上は事業主は労働者の受けるべき将来の保険給付の請求権を取得するものと解すべきである。そうでなければ保険制度の趣旨に反し、不公平且つ不当な結果となる。
(二) 労災保険は基本的実質的には責任保険である。保険給付が行われるときは使用者はその限度で労働基準法による災害補償の責任を免れる。災害補償をしたときはその価格を限度として民法上の損害賠償の責任を免れる。使用者は労働災害については労災保険で補償されると期待し、それを前提として保険料を負担する。この前提が成立たなければ保険料を支払わされる理由はない。
労災保険金は本来被保険者たる使用者が請求できるべきものであるが、使用者の経済負担を軽減し労働者の権利実現を確実にするという双方の保護、ことに労働者の保護の見地から労働者に保険金の直接の請求権が認められているにすぎない。使用者が賠償をした以上は本則に戻つて使用者自ら保険金を請求できるのは当然である。
これに対し被告の主張に従うとすれば次のような不合理を生ずる。
(1) 使用者としては保険給付のなされる前に損害賠償をすれば保険利益を受けられず、賠償をする前に保険給付のなされている場合に限つて保険利益を受けうることとなる。それでは使用者が保険利益を受ける目的で故意に賠償責任を争つて履行を遅らせるのを奨励することとなり、訴訟の遅延を招くのみか、労働者の早期完全な救済が困難となつて労災保険制度の目的に反する結果を招く。
(2) 損害賠償を履行した誠実な使用者が保険利益を受けられず、これを履行しない不誠実な使用者が保険利益を受けるという不公平を招く。右誠実な使用者は保険料と賠償金との二重払いを強制される。
同一の保険料を支払う使用者相互間でも賠償の履行の時期如何によつて受ける保険利益に故なく差等を生ずる。
労働者が賠償を受けたのちも保険給付を受けられるのでは、賠償を受けるより前には保険給付のみしか受けられないこととの対比で不合理であり公平を欠く。
このようにして労災保険法に明文がなくとも、同一の法理に基づく自動車損害賠償保障法一五条の規定を準用すべきである。
(三) 以上の次第で賠償者の代位または労災保険制度の趣旨乃至公平の原則に照し、事業主が労働者に賠償義務を履行した場合は保険者国に対し将来の保険給付金相当額の請求権を取得するものというべきである。
六 よつて前記控除されなかつた額とこれに対する訴状送達による催告の翌日である昭和五五年四月二二日以降完済まで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。
七 予備的請求について
岡山への保険給付額は昭和五二年一二月以降五五年七月まで金二一六万一、二六五円である。支払は毎年二、五、八、一一の各月末までに岡山からの請求を待たずになされる。昭和五五年八月現在の一回の支給額金二二万一、九九三円である。
よつて主たる請求に理由のないときは、左の計算に基づき前記控除されなかつた金額を請求する((一)(二)(三)の合計金三九五万六、一一四円)。
(一) 昭和五五年七月までの右既払給付額金二一六万一、二六五円
(二) 同年一一月、五六年二月、五月、八月、一一月、五七年二月、五月、八月の各末日支払い分毎回金二二万一、九九三円の八回分、合計金一七七万五、九四四円(このうち五六年一一月以降の四回分金八八万七、九七二円は将来の請求)
(三) 昭和五七年一一月分のうち金一万八、九〇五円(将来の請求)
被告代理人は主文同旨の判決および請求認容の場合につき仮定的に担保を条件とする仮執行免脱宣言を求め、答弁および主張として次のとおりのべた。
一 請求原因一、二の事実を認める。同三、四を争う。同五のうち、労災保険制度が労働基準法の使用者義務の履行を確保し、保険金を給付することにより被傭者の損失を填補するものであることを認めるが、その余を争う。同七第一段の岡山への給付額および支給月額、支給時期を認める。
二 原告はその主張の請求権を取得しえない。その理由は左のとおりである。
(一) 労災保険法には損害賠償義務を履行した事業主が労働者の国に対する労災保険の長期傷病補償給付請求権を代位取得することを認める規定がない。
法が保険金請求権の代位取得を認めるについては自動車損害賠償保障法一五条のように明文を置く。
(二) 昭和四四年法律第八三号、八五号による改正前の労災保険法一二条二項、一二条の五の一、二項は労働者死亡の場合につきその遺族等に保険給付請求権を認める。
原告主張の代位取得を前提とすれば、事業主が賠償した場合は右遺族等の給付請求権は失われねばならない。法はこれらの者の請求権の消滅を予定しない。このことは法が原告主張の代位取得を予定しないことを示す。
(三) 労災保険法一条の趣旨および保険給付請求権の譲渡差押禁止の定めに照せば、保険給付請求権は労働者の生活保障のための公的色彩の強い権利である。原告主張の代位取得になじまない。
(四) 代位取得が認められれば労働者の保険給付請求権は当然失われるほかない。ところが法はこのような請求権喪失を認めない。
代位取得を認めない場合、労働者が損害賠償と保険給付とを受けることにより二重に損害を填補される結果となることは否定できない。しかし労災保険給付は被災労働者の損害の填補のみならず生活保障をも目的とする。法は二重填補となる結果となることのあるのもやむをえないとするものである。このことは労働者が加害第三者から損害賠償を受けると共に労災保険給付を受ける余地の容認されていること(労災保険法一二条の四の二項)にも示される。
(五) 労災保険は労災補償責任を保険で填補するものであるから、災害につき事業主の故意過失を問わない。民法上の賠償責任の填補を直接の目的とはしない。これら両責任の認められる趣旨目的、責任の内容、支払金員の履行期、請求権者等に差異がありうる。
労災保険が事業主の補償責任を代行する機能を営む面のあることは否定できないにしても、事業主の保険利益をどの程度考慮するかは立法政策の問題である。事業主が保険料を負担するからといつてあらゆる場合に保険利益を全面的に享受できるものとするのは相当でない。
事業主が損害賠償責任の軽減免除をも目的として労災保険に加入するとしても、結果的にこの目的の達せられることのありうるのはともかく、事業主の期待は法律上当然に保護されるものではない。事業主が労災保険の利益を受けない部分につき保険料を負担することもやむをえない。
(六) 法は傷病補償年金給付については療養開始より一年半経過後も一定の廃疾状態にあることを要件とし、死亡の場合にはその時点で請求権が生じないとする。国はこれらの要件に対応する給付義務を負うが、給付の要件のない以上は事業主が損害賠償責任を果したと否とに拘りなく給付義務を負わない。
原告の立論に立つても事業主による賠償のなされた直後に労働者が死亡した場合は死亡により労働者の給付請求権は生じないこととなり、原告主張の事業主の代位請求権も基礎を失う。
事業主の保険利益を右の場合にも実現するためには、労働者の給付請求権の存否に拘りなく賠償額相当の金員を国に請求できることとするほかない。法はこのような権利を認めない。これを認めれば、国は事業主のなした賠償によつて労働者への給付義務を免れ利益を得たという関係なくして事業主に給付すべきこととなり、不当に国に不利益となる。法は事業主が不法行為に基づく賠償義務を履行するのを当然のこととし、事業主が保険利益を受けられない結果となつてもやむをえないとするものである。
(七) 長期傷病補償年金は療養の事実および支払時期の到来等により具体的に支給事由の確定したものについて、請求権者の請求によつて支給される。支給事由の確定なしに昭和八五年までの給付金の支払いを求めうるいわれはない。
立証として原告代理人は甲第一号証、第二号証の一乃至三、第三号証を提出し、被告代理人は甲号各証の成立を認めるとのべた。
理由
一 請求原因一、二の事実は当事者間に争いがない。
二 成立に争いのない甲第一号証によれば次の事実が認められ、この認定を左右するに足る証拠はない。
(一) 前記当時者間に争いのない判決の前提とした事実は、訴外岡山の受けるべき長期傷病補償給付の現在価格が四七五万九一三二円である事実、訴外人が当該給付として昭和四六年二月から同四八年一〇月まで年額二〇万八〇五〇円の割合による金員を、昭和四八年一一月から同四九年一〇月まで年額二三万〇八八一円を、現実に支給されたとの事実であつた。
右判決はこれらの事実に基づき右現在価格から現実支給額(計八〇三万三〇一八円)を差引いた三九五万六一一四円(未だ現実の支給のない額)は原告から訴外人への損害賠償として支払われるべき逸失利益から控除すべきでないとした。
(二) 右金額を控除すべきでないとされた理論的根拠は左のとおりであつた
(1) 労災保険法に基づく保険給付の実質は受給権者に対する損害の填補の性質をも有するから、事故が使用者の行為によつて生じた場合において受給権者に対し政府が同法に基づく保険給付をしたときは、使用者は同一の事由についてはその価格の限度において民法による損害賠償の責を免れる。
(2) このように受給権者の損害賠償請求権が失われるのは政府が現実に保険金を給付して損害を填補した場合に限られ、いまだ現実の給付がない以上、たとえ将来にわたり継続して給付されることが確定していても、受給権者は使用者に対し損害賠償の請求をするにあたり、このような将来の給付額を損害賠償債権額から控除することを要しないと解するのが相当である。
(三) 原告が訴外人に支払うよう命ぜられた前記争いのない金額には(一)の控除すべきでないとされた金額の全額が含まれる。
三 原告は右控除すべきでないとされた金額を損害賠償として訴外人に支払つたとして、訴外人の被告に対する未だ支給されていなかつた保険給付金の請求権を取得した旨主張する。
しかしこのように使用者が将来の給付金請求権を取得できるとするには疑問がある。
(一) 使用者が一括して損害を賠償することにより将来の保険給付請求権を取得するものとするときは、反面労働者はこの給付を請求できる地位を失うものとするほかない。
しかし長期傷病補償年金としての給付金は将来の一定の時期毎に支給されることに意義があると解される。将来に亘る損害の賠償を一括して支払われた場合、そのことにより当然に労働者が右給付金の支給を受けるのと同様の効果を受けるわけではない。この場合長期傷病補償年金を設けた趣旨目的が当然に達せられることにはならない。年金の一部がすでに支払われ或いは障害補償一時金が支払われた場合、これらの支払金相当額が損害賠償から控除されても補償金を設けた趣旨が損われないのとは事情を異にする。
(二) 年金の具体的支払請求権の発生は時間的経過に伴う事情の変動に左右される。
労災保険法は傷病補償年金の給付につき労働者が療養開始より一年半経過後も一定の廃疾状態にあることを要件とし、死亡の場合にはその時点で請求権が生じないとする(一二条の八)。右年金の支給されるべき地位が確定していても、現実の給付はこの積極的及び消極的要件との関係で未確定である。
一括して損害賠償がなされた場合に年金給付請求権を使用者が取得するものとするためには、これら条件の充たされなかつた時に、すでに使用者の取得している権利に変動を生ずるか否か、変動を生ずる場合及び生じない場合の帰結(例えば労働者死亡の時は使用者の取得している給付請求権がその時点以降失われるとし、或は使用者が保険料を支払つてあることを根拠に右請求権は失われないとする等)についての定めがなされなければならない。このような法律上の定めはない。
原告は自賠法一五条の準用を主張する。しかし同条は被保険者が損害賠償をしたことにより被害者の損害が填補されて、その額の限度では加害者(被保険者)、被害者、保険者の相互間に処理すべき他の問題の残らない場合に関する。同条を準用乃至類推適用することはできない。
(三) 労災保険給付を受ける権利を譲渡し、担保に供し、又は差押えることは労災保険法一二条の五、二項但書の場合を除いて禁止される。このことは法が保険給付を被災労働者自身に受けさせる趣旨であることを示す。将来の保険給付請求権乃至給付されるべき地位を使用者に取得させることはこの趣旨に反する。
同法は第三者の行為による事故の場合について、労働者が損害賠償を受けると共に保険給付を受ける余地を認める(一二条の四、二項)。このことは保険給付が損害賠償の行われることによつて当然に不要とされる性質のものでないことを示す。
(四) 以上の諸点を考慮すれば、使用者の行為によつて生じた事故につき損害賠償が履行された場合、労働者の将来の保険給付請求権を使用者が当然に乃至は代位により取得すると解するのは相当でない。
その他使用者が右請求権を取得するものとすべき事由は見出せない。
四 右のように考え且つ前記判決に従う場合、保険給付未了の間に損害賠償を受けた労働者は、保険給付を請求できる地位を保有することから給付完了後に賠償を受けた場合に比して有利となり、二重の利益を受けることになりかねない。しかしこの間の調整は法の趣旨に則り行政庁によつて行われるべきであつて、前記の理由からして使用者に将来の給付請求権を取得させることによつてではない。労災保険法附則六七条(昭和五六年一一月一日より施行)はこの点につき、労働者への保険給付をしない方法によることができるものとした。
損害賠償を履行した使用者は責任保険における保険利益を受けえない者と同様の立場に立つ。しかし労災保険は責任保険たるの実質のほかに、保険給付によつて被災労働者を保護することをも目的とすると解されるところ、この目的を達するため労働者に保険給付を受けうべき地位を保持させるについては、法は使用者が右の立場に立つ場合のあることを容認するものと解される。前記附則六七条の解釈としても同様に解される。
使用者が先に保険給付のなされることを期待して賠償乃至その訴訟の遅延を図ることは考えられなくはない。しかしそのことは使用者に将来の保険給付請求権を取得させる理由として十分でない。
五 以上の次第で原告主張の保険給付請求権取得の事実を認めえないので、その余の点にふれるまでもなく原告の請求はいずれも理由のないものとしてこれを棄却し、訴訟費用につき民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。